MITの研究室から生まれた光の半導体

2017年、MITの研究室でひとつの論文が発表された。光子(フォトン)を使って行列演算を実行するチップの試作に成功した、という内容だ。著者の一人がニコラス・ハリス。当時まだ博士課程の学生だった彼は、この技術を論文の中に閉じ込めておくつもりはなかった。

ハリスの出発点は光ではなく、電子だった。アイダホ大学(University of Idaho)でEECS(電気電子・コンピュータサイエンス)の学士を取得した後、半導体大手Micron TechnologyでDRAMとNANDフラッシュの研究開発エンジニアとして2年間(2009〜2011年)働いた。そこで彼が肌で感じたのは、電子ベースの半導体が物理的な壁に近づいている現実だった。回路を微細化するほど発熱密度は上がり、チップの性能向上はやがて頭打ちになる。この問題意識を抱えたまま、彼はMITの大学院へ戻った。

MITでは、ダーク・イングランド教授(Dirk Englund)が率いる量子フォトニクス研究室に所属し、全米科学財団(NSF)のフェロー研究員としてシリコン光子回路の研究を進めた。博士論文のタイトルは「Programmable Nanophotonics for Quantum Information Processing and Artificial Intelligence(量子情報処理と人工知能のためのプログラマブル・ナノフォトニクス)」。量子コンピュータ向けに開発していた光回路が、ディープラーニングの中核計算である行列演算にそのまま転用できると気づいたのが、起業への転機だった。「ディープラーニングが巨大なものになるとわかっていた。調べるうちに、自分が量子フォトニック計算のために作っていたシステムが、そのままディープラーニングに使えると気づいた」とハリスは後に語っている。

電子ではなく光で計算する。このアイデア自体は数十年前から存在していた。しかし、それを実用レベルのチップとして製品化しようとする者はほとんどいなかった。ハリスは、AIの爆発的な計算需要がこの技術をようやく「経済的に正当化する」と確信した。

Lightmatter社は2017年9月、ボストンで創業された。同じイングランド研究室で量子光子学の博士を取得したダリウス・ブナンダール(現・最高科学責任者)と、MBAプログラムで知り合ったトーマス・グラハム(COOを経て現・CFO)がハリスに加わり、3人で起業の道を選んだ。創業と同年、MITの起業コンペティション「MIT $100K」で最優秀賞を受賞し、翌2018年初頭にはMatrix Partners等から約1,100万ドル(約17億円)のシード資金を調達した。

なぜ「光」なのか

半導体チップの中を電子が走る。これが現代のコンピューティングの大前提だ。しかし電子には物理的な制約がある。電子が導線を流れるとき、必ず熱が発生する。チップが微細化するほど、発熱密度は上がり、冷却コストは膨らむ。

電子 vs 光子。演算媒体の比較
電子(Electron)
発熱・損失大
導線を流れる際に抵抗で発熱。チップ微細化の限界。データセンターの電力消費の主因
vs
光子(Photon)
低発熱・高速
光は導波路を通る際にほぼ発熱しない。光速で伝送。行列演算を光の干渉で瞬時に実行

光子を使った演算では、マッハツェンダー干渉計と呼ばれる構造を利用する。光の位相を調整することで、行列の掛け算を物理的に実行する。ニューラルネットワークの推論で最も計算量が多いのが行列演算であり、光子チップはまさにAIのために生まれた技術と言える。

さらにLightmatterが開発した「Passage」と呼ばれるフォトニック・インターコネクト技術は、チップ間の通信を光で行う。従来の銅配線では帯域幅に限界があったが、光インターコネクトにより、データセンター内のチップ同士が桁違いの速度で通信できるようになる。

44億ドル評価の裏側

2024年10月、LightmatterはSeries Dで4億ドル(約620億円)を調達し、評価額は44億ドル(約6,820億円)に達した。T. Rowe Priceが主導し、Fidelityとグーグル系VC・GV(Google Ventures)が追加出資した。創業から7年で累計調達額は8億5,000万ドル(約1,318億円)に達する。

44億ドル
企業評価額
4億ドル
Series D調達額
2017年
創業年

なぜこれほどの高評価がついたのか。それはAIインフラの電力問題が、もはや無視できないレベルに達しているからだ。NvidiaのGPUは高性能だが、電力消費も凄まじい。データセンター事業者たちは、電力供給そのものがビジネスのボトルネックになっている現実に直面している。

Lightmatterの技術は、この構造的な課題に対する根本的な解答を提示している。演算を光で行えば消費電力は大幅に削減される。チップ間通信を光に置き換えれば、帯域幅あたりのエネルギー効率は数十倍に向上する。投資家たちが評価しているのは、「いつか来る技術」ではなく「今すぐ必要な技術」としてのフォトニクスだ。

AIデータセンターの電力危機

2025年現在、AIの訓練と推論に使われるデータセンターの電力消費は爆発的に増加している。国際エネルギー機関(IEA)の試算では、2026年までにデータセンターの世界全体の電力消費量は1,000TWhを超える可能性がある。これは日本の年間電力消費量に匹敵する規模だ。

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    GPUの電力密度の限界NvidiaのH100は700W、次世代のBlackwellは1,000W超。ラック単位の冷却が追いつかない。
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    送電網の制約新規データセンターの建設は電力供給がボトルネック。北米では電力接続待ちが3〜5年。
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    環境負荷の批判Google、Microsoftの排出量増加が報道される中、持続可能なAIインフラへの圧力が高まる。
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    フォトニクスの解Lightmatterの技術は演算・通信の両面で電力消費を削減。同じ電力で数倍の処理能力を実現。

Lightmatterが提供する「Passage」プラットフォームは、既存のGPUやTPUと組み合わせて使うことができる。つまり、NvidiaやAMDのチップを置き換えるのではなく、それらの間をつなぐ光のインターコネクトとして機能する。この戦略が賢いのは、既存のエコシステムと対立せず、補完する立場を取っている点だ。

日本の光学技術との親和性

光コンピューティングという分野において、日本は実は「隠れた強国」だ。浜松ホトニクスは光検出器の世界シェアでトップクラスを誇り、信越化学は半導体用シリコンウェハーで世界首位。光ファイバー技術でも日本は世界をリードしてきた歴史がある

NTTが推進する「IOWN(Innovative Optical and Wireless Network=革新的光無線ネットワーク)」構想は、ネットワーク全体を光化するという壮大なビジョンだ。NTTはこの構想の一環として光電融合デバイスの開発を進めており、現在の電力消費量を最終的に100分の1に削減することを目標に掲げる。Lightmatterの技術とも思想的に近く、NTTはBroadcomと組んで第2世代の光電融合スイッチを2026年中に商用サンプル提供する計画だ。

日本のフォトニクス関連企業・技術
浜松ホトニクス
光検出器・光半導体で世界トップ。ノーベル物理学賞を支える技術力。
NTT IOWN構想
全光ネットワーク実現に向けた光電融合デバイスの開発。2030年商用化目標。
信越化学・SUMCO
シリコンウェハーの世界シェア過半。フォトニックチップの基板素材を左右する存在。

半導体産業の再興という観点でも、Lightmatterの事例は示唆に富む。政府主導で2nm世代のチップ量産を目指すRapidus(ラピダス)は、北海道・千歳市に工場を建設中だ。しかし半導体の課題はプロセスの微細化だけではない。チップが高性能になるほど、それをつなぐインターコネクトと、稼働させるための電力インフラが新たなボトルネックになる。AIデータセンターの電力問題は日本でも深刻で、政府は2030年度までにデータセンターの国内需要3倍増を見込む一方、電力網の逼迫も現実の課題だ。要素技術(光検出器・シリコンウェハー・光ファイバー)では世界最高水準にありながら、それを光コンピューティングのシステムとして統合し製品に変える企業が国内にほとんど存在しない。Lightmatterが照らし出しているのは、日本のディープテックが次に踏み出すべき一歩でもある。

光が変えるAIの未来

Lightmatterの物語は、AIの進化が計算能力だけでなく、エネルギー効率というまったく別の軸で制約を受け始めていることを示している。どれだけ優れたモデルを開発しても、それを動かす電力がなければ意味がない。

MITの研究室から生まれた光子チップの技術は、わずか7年で44億ドルの企業価値を持つスタートアップへと成長した。その背景には、AI産業全体が直面する構造的な電力問題がある。そしてこの問題は、今後さらに深刻化する一方だ。

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    物理の壁にはハードウェアで応えるソフトウェアの最適化には限界がある。本質的な効率改善はハードウェア・アーキテクチャの革新から生まれる。
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    「補完」という賢い参入戦略既存の巨人と正面衝突せず、エコシステムの隙間を光で埋める。日本企業の海外参入にも応用可能な思考法。
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    日本の素材・光学技術は世界最高水準足りないのはシステム統合力と起業家精神。要素技術をプロダクトに変える「翻訳者」が求められている。

起業家への示唆

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    「産業界の経験」と「アカデミアの深度」を両立させるハリスがMicronで電子チップの限界に直面した後にMITで光の研究を深めたように、現場の問題意識と最先端の研究が交差する地点に起業機会が潜んでいる。業界経験なしに研究室で生まれたアイデアは、課題の実在を証明しにくい。
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    研究室の技術が「別の用途」に転用できないか問い続ける量子コンピュータ向けに開発した光回路が、ディープラーニングの行列演算に使えると気づいたハリスのように、技術の「本来の用途」にとらわれないことが突破口になる。専門性が深いほど、転用の可能性は見えにくく、かつ真に価値が高い。
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    「代替」より「補完」でエコシステムに入るLightmatterはNvidiaのGPUを置き換えるのではなく、チップ間をつなぐ光インターコネクトとして市場に入った。既存の支配的プレーヤーと競わず、その周辺の「解決されていないボトルネック」を狙うことで、巨人を味方にしながら成長できる。

光は電子より速く、熱を出さず、帯域幅に優れる。これは物理法則であり、どんな企業努力でも覆せない。Lightmatterはこの物理法則を味方につけた。AIの未来が光に照らされる日は、もうすぐそこまで来ている。

※本文中の円換算は1ドル=155円で計算した参考値です。為替レートにより実際の金額は変動します。